藩政時代の松前
蝦夷地のキリシタン
豊臣秀吉が天下を治めた天正一三年(1585年)頃には、全国のキリシタン宗徒は70万人に達していたと言われています。慶長一八年(1613年)キリシタン宗教の禁教令が発せられ、翌年から京都を中心に宗徒の迫害が行われます。棄教に応じない者は津軽へ流刑され、そのうち津軽藩でもキリシタン弾圧が厳しくなりました。東北地方の大飢饉のため元和三年(1617年)には、3~5万人の砂金掘りが蝦夷地へ渡ったと言われていますが、ほとんどの宗徒が砂金掘りの労働者となって蝦夷地の金山に潜み住むことになりました。「松前は日本ではない」と北辺の地の特殊性を自認していた七世藩主公広(きんひろ)も、幕府の命により寛永一六年(1639年)、ついに金山のキリシタン宗徒を大量処刑しました。大沢金山では50人、石崎では6人、千軒金山では50人をこの年に処刑しました。
現在では、千軒金山番所跡と思われるところに慰霊碑があり、殉教者へのせめてもの祈りとなっています。
大千軒岳登山コースにあるキリシタン殉教碑。
毎年7月最終の日曜日には巡礼ミサが行われています。
(福島町観光パンフレット『横綱の里 ふくしま』より)
北前船交易
1600年頃、近江(滋賀県)商人がたくさん松前に来て、出店を開き繁盛しました。松前の産物(にしん・こんぶ・干しあわび)を京都や大坂などの市場で売りさばき、帰りには呉服物・米・味噌・醤油・漁具など百貨を松前に運んで商いしました。近江商人は団結して両浜組という組織を作り、藩と直接交渉ができました。藩の重臣と密接な関係を結び、藩に必要な物資を調達するだけではなく、重臣の私生活面での経済的な面倒まで見ていました。必然的に近江商人と藩権力とのただならぬ関係を招き、移出入品税に関する一部免除などの特権を得、実に大きな力を発揮するのです。
松前藩は米がとれず特殊な経済制度であるため、商人との直接的な取引をしなければ、藩の財政も家臣の生活も成り立ちませんでした。
また、文化面でも京都の文化が近江商人によってもたらされ、寺院の庭園樹や桜、椿など名木の多くはこの頃松前に運ばれたと言われています。
北前船と沖の口役所標柱(郷土資料館)
シャクシャインの戦い
和人とアイヌの人たちは米二斗入り一俵(約30Kg)と干鮭(さけ)100本との交換が習わしでしたが、藩の実権を握っていた家老が米を半分にしたため、アイヌの人たちの収入は半分以下になってしまいました。静内から厚岸(あっけし)方面まで広い地域にわたって勢力を持っていたシャクシャインは、各地のアイヌに呼びかけ和人撃滅に立ち上がりました。約19隻の和人の船が襲われ、273人が殺されています。
幕府は、旗本松前泰広(松前氏の一族)を総大将に津軽藩、南部藩、秋田藩などからも出兵しました。武器の差でアイヌの人たちは敗退し、新冠(にいかっぷ)で講和の宴に出席したシャクシャインは、酒に酔ったところを他の幹部連中とともに松前軍に殺されてしまいました。
これ以後アイヌの人たちは松前藩に絶対服従を誓い、武器をも失い、半奴隷的な運命に陥っていきます。
寛保の大津波
国指定天然記念物オオミズナギドリの繁殖地として知られる渡島大島は、鳥海火山帯北限に位置し、かつては大噴火を起こした火山島です。特に寛保元年(1741年)の寛保津波が来襲し、未曾有の惨事となりました。七月一七日に突然噴火し、昼夜が分からなくなるほどの噴煙と降灰が続き、一九日午前四時頃に約10メートルの大津波が押し寄せ、松前弁天島から西は熊石まで約110Kmにわたり大きな被害をもたらしました。溺死者1,467名、家屋被害791戸、船の被害1,521艘に上りました。しかし、この中にはアイヌの人たちの死者数、家や船の被害は入っておらず、その被害は計り知れない惨状だったと考えられています。
松前応挙と呼ばれた画人
1984年フランスのブザンソン市立博物館の収蔵庫で11点のアイヌ絵が発見されました。この絵こそ模写でしかその全貌を知ることができなかった蛎崎波響の描いた「夷酋列像」だったのです。蛎崎波響は名を広年といい、明和元年(1764年)一二世藩主資広(すけひろ)の五男として生まれました。叔父の松前広長に才を見いだされ、少年時代を江戸で過ごし南蘋(なんびん)派の宋紫石らに学びました。波響は一八才で家老となり松前に戻りますが、そこで出会ったのが大原呑響(左金吾)で、彼に師事して波響と改めたと言われています。また、江戸、京都にかよい円山応挙の一門と交遊し影響を受け、彩色花鳥図を得意とし、写実に優れ、気品のある作品を描きました。
寛政元年(1789年)にクナシリ・メナシ蜂起が起き、その際松前藩に協力した一二人の長老たちの姿を描いたのが「夷酋列像」です。威厳をもって描かれた長老たちは、蝦夷錦やロシア製と思われる外套や靴などを身につけています。寛政三年藩主の命により上京し持参したところ、光格天皇や宮家、公家等に閲覧され、波響はこれを非常な名誉とし、その後「曽経天覧」(かつてえるてんらん)の関防印を用いるようになります。
北方への関心が高まり、梁川への移封など藩政の困難な時期に、多大な苦労と尽力をした波響は六三才で没し、法源寺にひそやかに眠っています。
波響の肖像
夷酋列像「イコトイ」
梁川への移封
一三世道広は、明和二年(1765年)11歳で藩主となったが、幼少より英明、傲慢な性格で、大大名や徳川一門と交際し、常に幕閣に対し反発する態度を持ち続けていました。また、派手好みで浪費が多く、大商人からの借り上げ金も多く、藩政も極度に困窮し支払いができないため商人たちの公訴が続出し、再三にわたって幕府から戒告を受けるという藩主でした。このような折り、ロシアの南下に対する関心が世情で盛り上がり、寛政四年(1792年)にはロシア使節ラックスマンが根室に来たりしたが、藩主道広は北方危機について何ら対策を講じようとはしなかった。松前藩だけの力では蝦夷地の防衛は至難であると考えた幕府は、段階的に松前藩から領地を召し上げ、津軽藩・南部藩・仙台藩などに出兵を求め、警備と開拓を図り領土の保全を図ろうとした。
文化四年(1807年)蝦夷地、唐太(からふと)とその属島を全て公収し、松前藩は九千石の小名に降格させ、陸奥国伊達郡梁川(現:福島県伊達市)に移封させられました。家臣の半数を浪人させて、一四年間苦痛の生活を強いられました。
この縁で、松前町と福島県伊達市(旧:梁川町)は姉妹都市になっています。