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不動明王立像

指定 道指定
区分 有形文化財
指定年月日 昭和60年(1985)3月30日
所在地 松前町字松城
所有 真言宗海渡山阿吽寺

紹介文

津軽地方と蝦夷支配の任にある「蝦夷管領」津軽安東氏は、祖先が天台宗に拠っていたが、鎌倉幕府の真言宗登用の影響と、南部氏(天台宗)との対立で、次第に真言宗に傾倒していった。鎌倉時代末期、安東氏の菩提寺として、津軽相内(青森県北津軽郡市浦村相内)にあった阿吽寺の本尊が、この不動明王であると云われている。
永享4年(1432)とも嘉吉2年(1442)ともいわれる南部氏と安東氏の武力衝突で、南部氏に追われた安東氏は、翌3年に蝦夷地(北海道)に逃げ延びたとされる。その際に、真言修験者の山王坊は、阿吽寺の本尊を携えていたという。この後に安東氏の菩提寺であった阿吽寺は茂辺地(現北斗市)に移り、茂別館の下国氏に奉仕することとなる。さらに、松前の大館へ移転した後、永正9年(1512)にアイヌとの戦いで焼失した。
阿吽寺は、大永7年(1527)大館に再興し、蠣崎(松前)氏の祈願所となるが、その中興開山は松前家2世光廣の次男高廣(永快阿闍梨)であった。福山館の完成に伴い、他の寺院とともに元和5年(1619)現在地に移転した。堂はしばしば火災にあったが、土蔵形式であったため、本尊と共に多くの宝物が守られ、現在に至っている。
像の背にある光背は「迦楼羅焔光」で、頭部は総髪、両眼を見開き、髪は左肩に結んだ「索髪」、口には「二牙」といい、口の両側に牙がある。右手に「宝剣」、左手に「羂索」左肩から下がる「条帛」と腰から下の「裳」には截金で模様を施す。
作成年代は平安時代後期(11世紀~12世紀)とされ、その作風から、北陸地方の仏師の作と考えられている。
 

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