歴史・文化


北海道最南端に位置する松前町は、最北の城下町として栄え、松前城(正式には福山城)をはじめとした数々の史跡が残されており、日本さくら名所100選の「さくらの里」としても知られています。北海道に独特の文化をつくり、歴史上のドラマを繰り広げた松前の歴史を紹介します。
松前の歴史
「松前藩の栄華を探る」(8分55秒)
最北の藩
松前の地に人が住み始めたのはいつの時代でしょうか。ストーン・サークルが発見された東山遺跡は縄文時代の遺跡で、はるか太古から、この地に人々の豊かな営みがあったことを知らせます。松前は、先住民族であるアイヌの人々の地でしたが、この地の豊かさにひかれ、早くから和人が渡ってきました。本格的な和人の居住が始まったのは平安時代末期で、奥州に及んだ戦乱に押し出された人々が、渡島半島各地に砦を築きました。
その中で頭角を現したのが、松前家の始祖となる武田信広です。信広はコシャマインの戦いを治めた功績を認められ、上ノ国花沢館の蠣崎氏に婿入りし、2世蠣崎光広が松前へ転居したことで、松前が蝦夷地経営の拠点となりました。5世蠣崎慶広は豊臣秀吉・徳川家康から大名として認められ、姓を「松前」に改めて初代藩主となり、慶長11(1606)年に福山館(後の福山城)を完成させます。
北前船がもたらした文化
米がとれなかったため石高で表す手段がなく、「無高の藩」と呼ばれた松前藩。そのかわり、遠くオホーツク海にいたる北方の水産資源、北海道の広大な森林資源を一手に支配した松前藩は、交易によって豊かな繁栄を謳歌します。北方の資源が松前藩から北前船と呼ばれる交易船によって京都大阪に送られる一方、雅な上方文化が松前に運ばれました。
今に伝わる松前神楽や松前祇園ばやしなどは上方文化の影響が色濃く残っています。
交易がもたらした豊かさは、上方にも劣らないほどの華やかな松前文化を育みました。
そのなかで、独自の郷土芸能ばかりではなく、芸術でも独特の文化が花開きました。
松前藩の家老であった蠣崎波響は、京都をたびたび訪れ、上方の文人と交流。日本画で著名な円山応挙の流れを汲む画人としても知られます。
なかでも、寛政元(1789)年のクナシリ・メナシの戦いを治めるために松前藩に協力したアイヌの有力者たちを描いた「夷酋列像」は傑作の誉れ高く、多くの模写を生み出しました。
動乱の時代
相次ぐ外国船の出没により、北方防備に対して不安を抱いた幕府は、文化4(1807)年、松前藩から蝦夷地の支配権を取り上げたのです。波響は家老として、陸奥国梁川に移封された松前藩の復領に力を注ぎました。幕末の動乱期、13代藩主松前崇広は、攘夷に反対する開明的大名でした。幕府再興に力をつくし、幕末政治に大きな役割を果たしましたが、後に失脚。藩内では勤王派のクーデターが起こるなど藩政は混乱を極めました。明治元年、榎本武揚率いる旧幕府軍にいた新撰組副長・土方歳三は松前城を攻め落とします。こうして松前藩の歴史は事実上の終わりを迎えたのです。
詳細はこちら「松前歴史物語」
日本遺産認定

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