蠣崎波響筆 柴垣群雀図
紹介文
蠣崎波響は、明和元年(1764)松前家第12世資廣の五男として福山館で生まれる。2歳で藩の家老蠣崎元右衛門の養子となり、蠣崎家をつぎ、幼名は金介のち弥次郎、蠣崎将監廣年と名乗った。藩随一の硯学といわれた叔父の松前廣長は、廣年(波響)をこよなく愛し、幼い時から詩文や画の才を表したという。叔父の廣長は勉学のため廣年(波響)を江戸に遣わし、和学・書・絵を学ばせた。建部凌岱(寒葉斉)や、宋紫石の門下において才能を発揮し、20歳で松前藩に帰り家老となった。
波響が、寛政元年(1789)の「クナシリ・メナシの戦い」のとき、鎮圧に協力したアイヌの指導者ら12名の肖像画を描いたのが「夷酋列像」である。
その後上京するなど多くの文人墨客と交遊し、その間、円山応挙の弟子となり、円山派の画技に精通し、人は波響のことを「松前応挙」と称した程であった。
柴垣群雀図は、波響が青年期に描いた秀作で、寛政6年(1794)、章廣の教育のため、京都から大原左金吾(呑響)を呼ぶこととなり、波響は京都へ上洛した。「柴垣群雀図」は、呑響が帰る寛政8年6月に描かれたもので、縦87.7cm、横42.8cmの軸物、『寛政八年六月 廣年』とある。上部には、大原呑響の讃がある。
文政9年(1826)63歳で没した。波響には「廣年院殿徳随波響居士」の戒名が与えられ、法源寺に埋葬された。