カラフトアイヌ供養・顕彰碑
紹介文
嘉永6年(1853)秋に、ロシア兵70名以上が樺太南部の久春古丹(後の大泊、現コルサコフ)に要塞を築き、以後8カ月にわたって軍事施設を構築したという、「クシュンコタン占拠事件」があった。この石碑は、嘉永元年(1848)に72歳で没した惣乙名・キムラカアエノを弔い、供養するために、脇乙名ハリハリホクンが清水平三郎の世話を介して建立したものである。その両側面には、ロシア軍占拠下の危機的な状況下であったにもかかわらず、現地に踏みとどまったカラフトアイヌの人々や、越年番人をソウヤに送り届けた和人に対して協力的な行動であったことと、それを行った人々の名が記され、全体として顕彰碑となっている。なお、供養・顕彰碑建立の中心的人物であった清水平三郎は、安政3年(1856)に幕臣に登用され、同年6月に箱館奉行所支配のクシュンコタン詰、調役下役出役を命ぜられていることから、この石碑はこの頃にクシュンコタン運上屋付近に建立されたものと考えられている。この石碑がどのような経緯で光善寺に所在するのか不明であるが、当時の日ロ間の国境交渉にかかわる領土概念や、幕府の対ロシア、対アイヌ政策を知る上で、貴重な資料である。