藤倉家資史料
紹介文
藤倉家の履歴によれば、生国若狭国の藤倉保森は、松前家始祖の武田信廣に随従して蝦夷地へ渡ったとされている。中興後、初代義光は、寛永11年(1634)徳川家光上洛の際に、7世公廣に随従して上洛したとされる。2代義武は、寛文年間(1661~1672)の「シャクシャインの戦い」の功績により、シャコタンなど5ヵ所を知行した。その後、享保10年(1725)に公訴事件で松前藩は藤倉近兵衛らを江戸に派遣している。さらに、奥州梁川から復領後の文政6年(1823)14世章廣代に、9代藤倉官五は江戸勤めとなった。慶応2年(1866)4月に17世崇廣が病没し、18世徳廣が藩主となったが、徳廣には持病があり難局を切り抜けられないとして、引退の意思であることが江戸から松前に伝わると、10代藤倉織部らが退隠に反対である旨の上書をした。館城築城後には藩の機構改革があり、管事局・文武局・民政局・会計局のうち、民政局副管轄を藤倉右近が勤めている。藤倉家は二度の中興を経て、松前藩史のなかで重要な役割を果たしており、この一括資料は松前町の歴史を知るうえで貴重である。