旧福山城本丸表御殿 玄関
紹介文
6年の歳月を費やし、慶長11年(1606)8月に完成した城は、当時これを「福山館」と称していた。その後、寛永14年(1637)3月、城中から出火し硝薬に飛火し、建物の多くを焼失したが、同16年6月これを修築した。嘉永2年(1849)福山城新城構築の際、旧本丸表御殿の建物は、そのまま新城に利用された。明治8年までに、開拓使の手によって福山の建物は取りこわされ、表御殿と天守、本丸御門を残すのみとなった。表御殿は、同年開校された松城小学校校舎として充用されてきたが、明治33年新校舎建築の際に撤去された。しかし、この表御殿だけは、小学校正面玄関として利用され、昭和57年までの間、原形を保っていた。現在は、そのまま曳屋され、管理保存されている。
この玄関は、京都伏見城の一部を移したものと伝えられているが、唐破風の曲線や懸魚は、桃山時代の流麗な作風をもち、また外部の松竹梅に鶴亀、内部の五・三の桐と相対する沢潟の紋章をはめこんだ蟇又は、桃山時代の特徴をよく示したものである。