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松前氏城跡福山城跡

指定 国指定
区分 史跡
指定年月日 昭和10年(1935)6月7日
所在地 松前町字松城等
時代 近世~
管理 松前町

紹介文

松前家の前身蠣崎(かきざき)氏は、大館を拠点とし、5世慶廣(よしひろ)のとき、豊臣秀吉、徳川家康によって大名に列せられ、姓を松前と改めた。初代藩主となった慶廣は、慶長5年(1600)大館の南方にある、福山台地に新城(福山館)を築き、6年の歳月を費やし、慶長11年(1606)に完成した。
嘉永2年(1849)、幕府は蝦夷地近海に出没する外国船に脅威を感じ、要害を固めるよう、17世崇廣(たかひろ)に特旨をもって築城を命じた。 崇廣は、翌3年、高崎藩の兵学者市川一学に設計させ、家老松前内蔵廣当(くらまさひろ)を総奉行として(のちに家老下国安芸崇教があたる)工事に着手し、5年の歳月を経て、安政元年(1854)新城が竣工した。
新城の面積は23,578坪(蝦夷実地検考録)。本丸、二ノ丸、三ノ丸、城門16、三重櫓1、二重櫓3、渡櫓門3、多聞櫓2を備え、特に海岸に近い三ノ丸には台場7基を配備した。
竣工とともに、幕府目付堀織部正利熙(ほりおりべのしょうとしひろ)らが新城を検分し、福山城と呼称され、我が国において最北に位置する、最後の日本式城郭となった。
明治元年(1868)10月、幕府脱走軍は、榎本釜次郎武揚(えのもとかまじろうたけあき)を首領として蝦夷地(現森町鷲ノ木)に上陸した。さらに五稜郭を占拠し、その後、かつての新選組副長土方歳三を長とする陸軍隊・額兵隊(がくへいたい)の主力が、福山城へ向けて進撃を開始した。松前藩は死力を尽くして防戦したが、遂に落城し、城内の一部と寺町を焼いて敗走した。 明治2年(1869)4月には、幕府脱走軍の占拠する福山城を官軍が奪回するなど、2年間にわたる戦禍は、城下町の3分の2を焼き、城内にも大きな被害を与えた。
明治5年になって、開拓使の治政下に入り、同6年9月、黒田次官の裁決を仰いで福山城の取り壊しを決定し、同8年までには、三層天守、本丸御門、本丸御殿を残し、他の建物、石垣を取り壊し、濠を埋めて、城郭の形態を失うに至った。
昭和10年6月7日、国指定史跡に指定されたが、昭和24年6月5日、火災により国宝であった三層天守と土塀を焼失した。さらにその後、公有・民有の建物等が増加し、史跡指定地内の荒廃が激しくなったため、昭和51年度より史跡福山城保存管理計画に基づき、保存整備が進められ、現在は平成28年度からの保存活用計画により整備を進めている。

写真


福山城天守と本丸御門
慶応3年頃の福山城

参考

PDF『松前の文化財』(2011年松前町発行) (914.1KB)
 

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