大館跡
紹介文
大館跡は、松前町字神明から字福山にかけての丘陵地、将軍山の裾野が街の中に突出した舌状台地上にあり、東はバッコ沢、西は小館沢にはさまれ、前方に大松前川が流れる標高45m~55mの天然の要害地である。大館は「道南十二館」のひとつで、蝦夷管領安東氏が同族の下国定季(さだすえ)を館主として配置し、蝦夷地で安東氏の代官を行っていた館である。
康正2年(1456)に発するコシャマインの戦いにより、十二館のうち茂別、花沢の2館が残り、この時、花沢(上ノ国)館主蠣崎季繁(すえしげ)の客将である武田信廣(のちの松前家第1世)がコシャマイン父子を倒した。
その後大舘は、下国定季の子恒季(つねすえ)が館主となったが、粗暴の行状(ぎょうじょう)が多く、明応5年(1496)、同族によって自害させられ、代わって相原季胤(すえたね)が充てられ大館を守らせた。永正10年(1513)にアイヌとの戦い(大館合戦)が起こり、相原氏は滅んだ。
翌11年(1514)、花沢(上ノ国)館主2世光廣は、上ノ国から小舟180余隻で松前大館に移り、館名を徳山館と改め、のちに安東氏の代官となった。 蠣崎氏(のちの松前氏)は、2世光廣、3世義廣、4世季廣、5世慶廣と4代にわたり大館を拠点とした。大館は慶長11年(1606)に福山館に移転するまでの間、蝦夷地経営の拠点として重要な役割を果たした。
地図
注意 現地はヒグマ出没の恐れがあります。