2021年 2月22日 松前町 冬の風景 いま・むかし
今回は、「写真」を用いた話をしたいと思います。写真撮影といえば、カメラとフィルムを用意し、現像に出し…とお金も手間も掛かるものでしたが、最近はスマートフォンで何枚でも綺麗な写真を撮影することができます。私も大きなカメラを持ち歩くことは少なくなりました。
手間が掛かっていたからこそ、かつて1枚の写真に込められた思いは、より強いものだったかもしれません。そんな昔の写真たちを、カラー写真によみがえらせて、現在の風景と並べてみることで、1枚の写真から、時の経過や時代の背景を読み取っていきたいと思います。
(1)の写真は、昭和26年(1951)に撮影された松前城下の写真です。(2)の写真は、令和3年(2021)に撮影した写真。どちらも松前町、城下通りから西向き、天神坂方面を撮影した写真です。現在、函館・木古内方面から国道を松前町の城下通りに入った際、皆さんが一番初めに天守を目にする場所です。2枚の差は70年。並べて見て、どのような気付きがあるでしょうか。
慶長11年(1606)、現在城のある台地上に福山館を築城した際、松前の城下町は形成されたと考えられています。宝暦年間(1751~1763)の松前城下を描いた「松前屏風」にみられる道路の配置は、現在の地割と比較して、ほとんど変わっていません。約400年前から松前城下の配置は続いてきたものなのです。
天神坂とは、福山城(松前城)の三ノ丸へ繋がる坂で、2つの写真に共通して奥に写っています。平成14年には「天神坂門」が復元されました。坂の形が変わっていないことはもちろん、石垣の石は70年経った今も同じものです。(2)の写真には、天神坂の上段に桜の巨木が鎮座しています。松前三大名木のひとつ、「夫婦桜(めおとざくら)」です。この桜は、染井吉野と南殿(なでん)という2つの品種の桜が1本の根から育っています。昭和の写真に写っているのは土台となった染井吉野でしょうか。
昭和24年6月5日、国宝であった松前城の木造天守は、役場火災の飛火により焼失しました。この写真が撮影された昭和26年は、天守焼失の2年後。昭和35年に復興天守が再建されるまで、約11年、松前町は天守のない町となりました。
焼失前は公会堂として利用されていた天守でしたが、昭和初期には毎年のごとくの小破修理で、無用の長物扱いされることもあったそう。しかし、城が炎上すると、町民の多くは「これが松前城の最後」と外に出て手を合わせ、涙ながらに落城を見守ったといいます。その後、城を失った松前の人々は募金運動を始め、天守の再建に至りました。お城が松前に住む人々のアイデンティティとして、深く根付いていたのでしょう。
2枚の写真を並べて見るだけで、様々な発見がありました。(1)の写真手前には、角巻き姿の母親と一緒に歩く子どもの姿がみられます。背丈から察するに、小学生くらい。ご健在ならば現在80歳前後でしょうか。ご年配の方には昔を懐かしむ材料として、若い方には新しい発見の手がかりとして、写真は大きな役割を果たします。皆さんも、たまにお家に眠っている写真たちを見返してみてはいかがでしょうか。
手間が掛かっていたからこそ、かつて1枚の写真に込められた思いは、より強いものだったかもしれません。そんな昔の写真たちを、カラー写真によみがえらせて、現在の風景と並べてみることで、1枚の写真から、時の経過や時代の背景を読み取っていきたいと思います。
(1)昭和26年 冬の城下 | (2)令和3年 道南うみ街信金前より |
(1)の写真は、昭和26年(1951)に撮影された松前城下の写真です。(2)の写真は、令和3年(2021)に撮影した写真。どちらも松前町、城下通りから西向き、天神坂方面を撮影した写真です。現在、函館・木古内方面から国道を松前町の城下通りに入った際、皆さんが一番初めに天守を目にする場所です。2枚の差は70年。並べて見て、どのような気付きがあるでしょうか。
変わらないもの
まず、この2枚の写真に変わらず写る「道路の形」と「天神坂」を見てみましょう。慶長11年(1606)、現在城のある台地上に福山館を築城した際、松前の城下町は形成されたと考えられています。宝暦年間(1751~1763)の松前城下を描いた「松前屏風」にみられる道路の配置は、現在の地割と比較して、ほとんど変わっていません。約400年前から松前城下の配置は続いてきたものなのです。
天神坂とは、福山城(松前城)の三ノ丸へ繋がる坂で、2つの写真に共通して奥に写っています。平成14年には「天神坂門」が復元されました。坂の形が変わっていないことはもちろん、石垣の石は70年経った今も同じものです。(2)の写真には、天神坂の上段に桜の巨木が鎮座しています。松前三大名木のひとつ、「夫婦桜(めおとざくら)」です。この桜は、染井吉野と南殿(なでん)という2つの品種の桜が1本の根から育っています。昭和の写真に写っているのは土台となった染井吉野でしょうか。
2枚の写真の違い
次は、写真に無いものを見ていきましょう。皆さん、お気づきでしょうか。昭和の写真には、松前町の象徴であるはずのお城が見当たりません。昭和24年6月5日、国宝であった松前城の木造天守は、役場火災の飛火により焼失しました。この写真が撮影された昭和26年は、天守焼失の2年後。昭和35年に復興天守が再建されるまで、約11年、松前町は天守のない町となりました。
焼失前は公会堂として利用されていた天守でしたが、昭和初期には毎年のごとくの小破修理で、無用の長物扱いされることもあったそう。しかし、城が炎上すると、町民の多くは「これが松前城の最後」と外に出て手を合わせ、涙ながらに落城を見守ったといいます。その後、城を失った松前の人々は募金運動を始め、天守の再建に至りました。お城が松前に住む人々のアイデンティティとして、深く根付いていたのでしょう。
2枚の写真を並べて見るだけで、様々な発見がありました。(1)の写真手前には、角巻き姿の母親と一緒に歩く子どもの姿がみられます。背丈から察するに、小学生くらい。ご健在ならば現在80歳前後でしょうか。ご年配の方には昔を懐かしむ材料として、若い方には新しい発見の手がかりとして、写真は大きな役割を果たします。皆さんも、たまにお家に眠っている写真たちを見返してみてはいかがでしょうか。