松前藩の成立

安藤氏からの独立

五世慶広は策謀家で決断力に富み、外交にたけ、戦国武将としての力も備えていました。文禄二年(1593年)に時の関白豊臣秀吉に肥前名護屋で面会し、蝦夷地支配の朱印状を与えられ、蛎崎氏は蝦夷地の領主として安藤氏から独立しました。
謁見の際に秀吉から拝領したといわれる桐章の写真
謁見の際に秀吉から拝領したといわれる桐章。松前神社の社宝となっています。  

松前藩の成立

天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に徳川幕府を開きました。慶長九年(1604年)一月に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、徴役権、交易の独占権を得て、日本最北の藩松前藩が成立しました。しかしながら、領内に米の生産がなく、明確な大名格付けはされていなく、幕府の『武鑑』のなかでは、大名の最末席に位置づけされ、一万石以上家に準ずる待遇を受けていました。
徳川家康からの制書の写真
徳川家康からの制書

花山院忠長の配流

従四位左近衛権少将花山院忠長ら青年公家たちが、後陽成天皇が寵愛する女官たちとの密通が発覚し、天皇は激怒し全員を極刑に処すよう幕府に命じました。しかし、朝廷への統制を強める機会を狙っていた幕府は、忠長らを流刑にしてしまいました。(この事件が4年後「公家衆法度5ヶ条」を定めた要因といわれています。)

慶長一五年(1610年)上ノ国に到着した忠長を、五世慶広は万福寺に移し厚遇しました。これをきっかけに大大名も及ばないほど松前は、京都との密接な関係を築き上げていきます。七世公広(きんひろ)は大納言大炊御門資賢の息女を、一三世道広は右大臣花山院常雅の息女など五人の藩主が都から正室を迎え入れています。侍女たちも藩士たちと婚姻して、松前に京文化が次第に浸透していきました。
五世慶広公の木像の写真
五世慶広公の木像(阿吽寺所有)

北のシルクロード

アイヌの人たちが交易で得ためずらしい品物には、黒竜江(アムール川)付近から伝わった中国の衣服や絹織物などがありました。この美しい絹織物は「蝦夷錦」または「山丹錦」といわれ、赤や青地の布に竜や竜頭、牡丹などの紋様が織り込まれています。

蝦夷錦は松前藩の独占交易品として、幕府などへの進物品に使われました。五世藩主慶広が、豊臣秀吉に謁見するため肥前名護屋を訪れたとき、徳川家康の望みに応じ着ていた蝦夷錦の胴服を家康に献上したという話が残っています。

遠く中国の江南地方で生産された絹織物は、様々な民族の手を通して松前へと渡ってきたのです。
龍雲院の蝦夷錦の写真
龍雲院の蝦夷錦
 

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