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幕末へ・・・

ゴローウニン事件

幕府が松前藩を梁川に移し北方警備を強化している中、文化八年(1811年)千島列島などの測量を命ぜられたロシア軍艦ディアナ号が国後島沖にやって来ました。国後に上陸したゴローウニンら八人はたちまち捕らえられ、船に残った副艦長リコルドは南部藩と砲撃戦を行いましたが、オホーツクへ引き返しました。

ゴローウニンらは松前に連行され、取り調べを受け、捕虜として抑留されることになりました。翌年には脱走を試みますが、失敗に終わり再びとらわれの身になっています。

この文化十年八月にリコルドは、中川五郎治や6名の漂流民とともに国後に来て、ゴローウニンの釈放について交渉しましたが許されませんでした。たまたまそこへ高田屋嘉兵衛の観世丸が現れ、嘉兵衛と4名の水夫を伴ってカムチャッカに帰港し、ゴローウニンらとの交換を申し入れました。翌文化九年九月リコルド副艦長の指揮するディアナ号は箱館に入港し、ついにゴローウニンらは高田屋嘉兵衛と交換、釈放されました。

この後しばらくの間、北方は平穏になりました。
ゴローウニン少佐像
ゴローウニン少佐像
(市立函館図書館所蔵)

種痘を広めた名医

天然痘は古くから有効な治療法が見つからず、死亡率が高く非常に恐れられていた病気でした。その予防法である「種痘」を、ロシアから伝えたのが中川五郎治(1768~1848)でした。

五郎治は南部藩領下北半島川内村の出身ですが、いつ蝦夷地に渡ったのかは分かっていません。やがて彼は、栖原屋庄兵衛の雇いになり択捉島の漁場で働いていましたが、ロシア船が襲撃してきたときにアイヌ語を覚えていたため、シベリアに連行され6年間のロシア生活を送りました。文化九年(1812)、五郎治が45歳の時「種痘書」を入手し医師について種痘方法を学びました。

五郎治の最初の種痘手術を受けたのは、函館大町の商人田中正右衛門の母田中イクで、十一歳の時(文政七年 1824)だと言われています。五郎治の晩年の記録は明らかではありませんが、彼を通して渡ってきた種痘法はその弟子たちによって伝承されていきました。

不治の病として恐れられた天然痘を治す種痘法は、当時の微妙な日本とロシアの国際関係がもたらした歴史的偶然の所産であったといえるかもしれません。
松前公園内にある 中川五郎治顕彰の碑
松前公園内にある中川五郎治顕彰の碑

松前崇広の栄光と挫折

十七世藩主崇広は、文政十二年(1829)松前家十四世藩主章広公の六男として福山城中に生まれました。部屋住(次男以下で家督相続のできない者)であった崇広は学問好きで、江戸に出ていろいろな素養を身につけました。

十六世藩主昌広は十五歳で藩主になり、頭脳明晰で決断力に優れていました。藩の権力を握っていた重鎮を更迭したり、有能な家臣を江戸・大坂等に出して勉学させるなど、藩の刷新に努めていました。しかし、二十一歳の若さで強度の神経衰弱にかかってしまい、藩主を引退することになりました。長男の準之助はわずか四歳で、激動する幕末期に藩政を行うことは困難なので、崇広が藩主になることになりました。

崇広は外国語や西洋事情などを研究していて、大名の中でも西洋通、開港論者として知られていました。多難な政局を乗り切るために有能な人材を必要としていた幕府は、文久三年(1863)崇広を突然寺社奉行に任命しました。寺社奉行は譜代大名から登用されるのが通例で、小藩の外様大名である松前氏が任命されたことは異例のことでした。

しかし、江戸から遠く離れた松前からでは経済的負担が大きく、藩の財政難は深刻になり、また、尊王攘夷派の崇広に対する風当たりが強く、三ヶ月あまりで辞任しました。  

 翌元治元年(1864)、幕府は崇広を老中格とし海陸軍総奉行に任命します。再度幕閣に抜擢されたのは、開明派大名で外国使節たちから好感を持たれていたためでした。崇広は幕府の権威回復と対外関係の打開を開港によって図ろうと考えていたようです。

当時、幕府は江戸の将軍家茂と京都の将軍後見職慶喜との間でが対立していました。そのような中、英・仏・米・蘭の四国連合艦隊九隻が兵庫沖に現れ、下関事件の賠償金の支払いと兵庫開港を強く迫り、条約の締結をしなければ上陸攻撃も辞さないという強い態度に出ました。この重大な局面で崇広と阿部豊後守守正と慶喜ら朝廷攘夷は真っ向から対立し譲りませんでした。

崇広らは要求を入れないときは戦乱が起こると見て、勅許を得ないで開港しようとしましたが、慶喜はこの動きを察知し朝廷に伝え、両老中は官位はく奪、老中解任、国もと謹慎の命令が朝廷から出されました。

将軍家茂から信頼され、幕権擁護のため昼夜の別なくして努力してきた崇広はは失意のうちに慶応二年(1866)一月松前に戻りますが、四月には熱病を患い三十八歳の生涯を終えました。
松前 崇広像 (松前町郷土資料館所蔵)
松前 崇広像
(松前町郷土資料館所蔵)

松前福山城の築城

崇広が藩主になってから一ヶ月経った嘉永二年(1849)七月十日、外国船の出没に備え津軽海峡の警備強化を図るため、幕府から築城を命ぜられ、城主大名になりました。

設計は当時の三大兵学者の一人である高崎藩の市川一学に一任しました。一学は海防上から福山は無理であり、箱館後方の桔梗野にある庄司山付近に築城するよう上申しますが、藩士たちは移転を好まず福山館を拡大して築城することになりました。

五年の歳月をかけ、安政元年(1854)九月に完成した松前福山城は、旧式築城では日本最後のものとなりました。完成した新城は面積約77,800平方メートルで、本丸、二の丸、三の丸、楼櫓6、城門16、砲台7座を備えていました。


昭和一六年(1941)に国宝に指定され、戊辰の役や開拓使の取り壊し、太平洋戦争にもかろうじて残った松前福山城天守閣でしたが、昭和二四年(1949)六月五日未明に松前町役場から出火した飛び火により焼失してしまいます。

現在の天守閣は町民の切なる願いと、全国からの善意により昭和三六年(1961)に再建されたものです。
慶応3年(1867)7月の松前城
慶応3年(1867)7月の松前城
木津 幸吉・田本 研造撮影

日本で最初に写真を撮った男

安政元年(1854)日米和親条約により下田・箱館が開港されることになり、ペリー提督率いるアメリカ極東艦隊が事前調査のため箱館へ来航することになりました。

崇広は応接使に松前勘解由を任命し、これに当たらせることにしました。当初具体的な協議ができないことにペリーは立腹し難航しましたが、勘解由は温厚篤実で貴公子然としていたため、ペリーに深い感銘を与えたと言われています。

その後、ペリーは箱館湾や噴火湾の測量を行い、箱館港が予想以上に良港であることに満足して、細かい取り決めは下田で協議することにして帰路に就きました。

この時同行していた写真師ブラウンが撮影した写真が松前町に残されています。当時は銀板写真で鏡に映したように全部が反対に写るので、着物を合わせるのも刀を差すのも左右逆にするなど大変な作業でした。また、写真を撮るとその人の魂が吸い取られて命が短くなるといわれていたそうです。
中央が松前勘解由 (原板・松前町郷土資料館所蔵)
中央が松前勘解由
(原板・松前町郷土資料館所蔵)

幕末に揺れる松前藩

慶応三年(1867)徳川一五代将軍慶喜が政権を朝廷に返上し、王政復古が発せられました。新政府は箱館に箱館府を設立し、徳川幕府の函館奉行との事務引継も平和裡に終了しています。

そうした中、松前藩では一八世徳広が病弱だったため、佐幕派である崇広公の重臣たちが政府軍・徳川軍両方に日和見的な態度をとり藩の命脈を保とうとしていました。

しかし、中級以下の家臣たちはこの優柔不断な態度に憤りを感じ、尊王と倒幕を標榜し正議士中という結社を作り、翌年七月に藩主徳広に建白書を提出しました。中立派の家老を取り込み、正議隊主導のもと藩政改革と反対家臣の粛正が行われることになります。松前勘解由以下佐幕派重臣を謹慎させ、八月一日夜には正議隊士がこれら重臣の家宅を急襲しています。

クーデターに成功した正議隊は、その成功を箱館府に報告し、藩政改革の第一歩として厚沢部村近くの館に新城を築くことを請願します。明治元年(九月八日に明治に改元)十月に館城は一応完成しました。
復元された搦手(からめて)二の門
復元された搦手(からめて)二の門

箱館戦争

庄内・会津を中心とした奥羽、越後の戦争は会津藩の降伏でひとまず平静になりましたが、新政府軍への降伏を受け入れようとしない者も多数いました。このような中、幕府海軍副総裁の榎本武揚率いる軍艦開陽以下七隻が仙台湾に停泊し、会津から逃れてきた諸隊と合流しました。

明治元年(1868)十月二十日(新暦では十二月三日)旧幕府軍は折からの風雪をついて、森村の鷲の木に上陸しました。徳川一門の生計を立てるため蝦夷地を開拓し、新たな領地を開きたいという想いでしたが、新政府としては到底認めることができないものでした。

旧幕府軍は箱館を攻め、十月二十五日に五稜郭を占領、二十七日には松前攻撃に移ります。海から十一月一日に軍艦蟠龍が松前湾から松前城を砲撃しています。陸からは土方歳三率いる陸戦隊七百名が知内、福島と占領し、十一月五日松前に入り激戦の末松前城東方の馬形(まがど)台地にある法華寺を占領しました。

一方、松前城内では城代家老蛎崎民部を中心に五百名あまりが旧幕府軍との対決に備えていました。旧幕府軍は海陸から城中へ砲撃し、陸兵が各坂口から進撃しました。搦手(からめて/裏門)門を攻めてきた土方軍に対し、松前藩兵は門を開くと同時に大砲を発射し、また門を閉じるという作戦をとりました。これに対し、土方軍は城壁にへばりつき、門が開くのを待って突撃し白兵戦となりました。

焼失前の松前城天守閣には多くの刀傷が残っており、激戦の様子がうかがえました。兵力の差でついに松前城は落城し、敗れた藩兵は市街・寺町の各所に火を放ち、夕方には藩主のいる館城へと敗走しました。

この攻防戦の戦火によって城下町の三分の二までが焼失し、これを契機に松前の町は退潮の一途をたどることになります。
松前城攻防戦の図
松前城攻防戦の図
(北海道大学中央図書館所蔵)

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